Go northsouth

◆Profile
GO
水墨画・キリスト聖句・アメリカンフットボール・旅行など下手なもの徒然

Home >notes >●words(みことば)

Words of God/みことば(聖句・ディヴォーション)メモ


日々のDevotionや触れた聖句の中で、気になったもの、そのとき抱いた感想を、
そのままの主観でメモします。

聖句

■2013.9.14ディボーションより

「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、 あなたがたが満たされますように」
(エペソ3:18〜19 / Ephesians3:18-19)

こちらも松本牧師のディボーション書「いってらっしゃい」からです。
キリストの「愛」を理解するのは、長い時間がかかるかもしれません。いまこの地にある愛の概念をはるかに超越しているからです。
この聖句のキリストの愛の「広さ・長さ・高さ・深さ」について、松本牧師はこのように説明しています。少し引用します。
「キリストの愛の「広さ」とは、ユダヤ人も異邦人もすべての人を救いに導くという広さです。
愛の「長さ」とは、一人の罪人が悔い改めるまで、扉の外に立ち、招き続ける、その忍耐に現される愛の長さです。
愛の「高さ」、これは、この世のどんな愛とも比べられないほどの崇高な愛のことです。
そして愛の「深さ」とは、どのような罪の深みにはまり、どん底のような状態に陥ってしまった罪人のところにも届き、引き上げてくださる愛の深さです。」

イエス様は、徹底的に弱者の味方なのだなと思います。
人間、正しく清潔にポジティブに生きようとすれば、助けやすい人には手を差し伸べますが、こちらが引きずり込まれてしまいそうな深い泥沼の中にいる状態の人や暗い闇に落ち込んでいる人を、どうしても避け気味になってしまいます。
自分が闇と影にまみれていれば、なぜか光と活力めいっぱいの人を疎ましく、あるいは偽善臭く、自分にあてつけているように感じてしまうものです。
御自身が光そのものでありつつも、厳密に言えばみな泥沼の罪人である人間を招いて・手をとって・引き上げてくださるイエス様。そのためにご自身が当時最もドス黒い拷問殺人刑、十字架刑、 つまり人間界最悪級の地獄の苦しみを味わうまで、私たちのために御身を落として来て頂いたのです。誰がイエス様に「あなたは恵まれているから私の苦しみなどわからない」と言えましょうか。イエス様は私たちの苦しみを分かっているのです。
映画『パッション』はその一点を文字通り「痛感」するための映画だと個人的に認識しています。私たちはイエス様と同じところまでは到底出来ないのですが、その肩代わりして頂いた「負債」を、 気持ちだけでもいくらか隣人を通してお返しよう、と結果はともかくとして(出来なかったり逆に負債を増やしてしまったりの悪戦苦闘ですが)志す、というのがクリスチャン・マインドということではないでしょうか。





■2013.8.26ディボーションより

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。
あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
主があなたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民より数が多かったからではない。」
(申命記7:6〜7 / Deuteronomy7:6-7)

松本雅弘牧師の「いってらっしゃい」という1日1ページの聖書日課のための本の、8月26日のページより。
神奈川県の南林間にある高座教会の牧師、松本牧師はポッドキャストでも説教を配信しており、私はこのポッドキャストで松本牧師を知りました。 私のホームチャーチの説教(Sermon)はすべて英語で行われるので、私は2割理解できればいいほうでしたが、それでは霊的成長が滞っていると感じて、 日本語でわかりやすい説教のポッドキャストを探していた時、わかりやすく、とても優しい語り口で配信している松本牧師の説教を見つけたのです。
特に、松本牧師の説教は、「弱い者・打ちひしがれた者へのイエスさまの愛」を話題にされることが多く、いつも非常に救われた気持ちになります。
 今日の聖句も、牧師の息子が誕生日にプレゼントしてくれた手作りのペン立てと絵に、神様と私たちを例えて言います。
「これは私の宝物のひとつです。お金を出しても買うことは出来ません。貨幣価値がゼロだからということもありますが、
それ以上に、その絵には、描いてくれた息子の心という、お金には換えられないものが込められているからです。」
「聖書は、あなたが「神さまの宝物」であることを教えています。(中略)神さまはあなたのことを、そのように思ってくれています。
いってらっしゃい。」
ある東京メトロ構内で、求人サイトの広告で「私の市場価値はそんなものじゃない!」というキャッチを見つけました。
能力・経験・実績・スキル…を換算した「市場価値」で測られることが多い東京の社会。プライベートもこの基準で測られることを避けえません。
でも、例え市場価値がゼロでも、神さまは私たちを尊いと言ってくれているのです。
 「基本的人権」という言葉が思い浮かびます。私たちが国民である限り、人間らしい生き方をする権利を有する。
少々酒飲みだろうと、だらしなかろうと、のろまだろうと、社会不適合だろうと、障害を負っていようと、金がなかろうと、国民である限り、人間らしく生きる価値がある。
昨今の政策では日本でのこの基本的人権も危ういですが、誰が首相になろうと、どの会社が私を切り捨てようと、誰もが私を否定しようと、無視しようと、 間違いなく神さまの基本的人権「私は神さまにとって宝−尊い」は揺るがないのだと思うと、いま苦難を味わってひとにも、救いの言葉のような気がします。